“核のゴミ”レポートPART48
北海道の放射性廃棄物施設問題をめぐる歴史をたどる(上)
危うい「反対」の道是

2026年01月号

1984年、動燃の事業所で発生するすべての放射性廃棄物を道北の幌延町に持ち込む「貯蔵工学センター計画」が浮上。危機感をいだく地元・周辺市町村の酪農民らが初の住民集会を開いた(85年11月、幌延町内で)

無責任で場当たり的な動燃に翻弄され続けた自治体と道民


北海道電力泊原発の再稼働をめぐり、鈴木直道知事が12月中に容認・同意する流れになっているが、これは核のゴミ(高レベル放射性廃棄物)の元になる使用済み核燃料をさらに増やし続けることを意味する。最終処分地の選定に向けたNUMO(原子力発電環境整備機構)の事前調査をめぐり「現時点では反対」とくり返してきた知事は、果たしてどこまで“核のゴミ”の発生源まで遡って問題点を考えているのか──そう疑問の目を向ける道民は少なくない。そこで今回から、1960年代に始まる本道での原子力関連施設の立地問題について、その歴史をたどりたい。第1回は、80年代に動燃の「貯蔵センター計画」で揺れた、いわゆる「幌延問題」を中心にふり返る。

(ルポライター・滝川 康治)

原発を推進してゴミは過疎地に
科学技術に幻想を抱いて先送り


「原子力施設から出る放射性廃棄物の処理・処分は、いずれ科学技術の進歩によって解決するだろう…」
 日本の原子力政策が始まってから長い歳月が流れたが、関係者の間に一貫しているのは、この無責任な思考パターンだ。高レベル放射性廃棄物(核のゴミ)の最終処分に向けた青写真はあるが、実際には“砂上の楼閣”。出たとこ勝負をくり返し、原子力文明とは無縁な地域に「負の遺産」を押しつける状況が続く。
 1954年、故・中曽根康弘氏らの働きかけで、国内初の原子力予算が急きょ計上された。しかし、政府による“核のゴミ”の後始末に関する検討作業は手つかずで、69年に科学技術庁(現文部科学省)に検討会が設置されたのが始まり。2年後に出された簡単な報告書では、“核のゴミ”の後始末は「今後の技術開発を待つ」にとどまる。
 70年代に入り全国各地で原発建設が加速した。北海道内では、67年に道が泊、島牧、浜益の3村を建設予定調査の候補地として公表。候補地から外れた浜益村(現石狩市)をはじめ、神恵内村、大成町(現せたな町)、幌延町が「第2の原発」誘致に手を挙げた。このうち浜益村では、70年代に北電が原発建設用地126ヘクタールを青田買いして地域を混乱させたが、結局、建設は日の目を見なかった(浜益村発行『苦渋20年“はまます原発”』参照)。

幌延町開進地区で行なわれた動燃のボーリング調査

フットサル場「蹴」が盗まれた現場

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北海道の放射性廃棄物施設問題をめぐる歴史をたどる

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80年暮れ、下川鉱山で〝核のゴミ〟地層処分に向けた試験計画が表面化。翌年4月、坑内で試験が始まった(提供:名寄新聞社)

動燃は85年5月、ガラス固化体の熱利用というホラ話を載せた計画書を公表

85年8月、道北の酪農民が初めて幌延町内でトラクターデモ

幌延町内で核ゴミ施設の危険性をアピールする近隣町村の人たち(85年11月)

80年暮れ、下川鉱山で〝核のゴミ〟地層処分に向けた試験計画が表面化。翌年4月、坑内で試験が始まった(提供:名寄新聞社)

動燃は85年5月、ガラス固化体の熱利用というホラ話を載せた計画書を公表

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