創立80周年を迎えた稚内信用金庫の増田雅俊理事長に訊く
地域に感謝し地域に奉仕する不変の理念で歩む「次の80年」

2025年11月号

「若い頃に心臓病を患った経験が金庫経営にも生きている」と語る増田理事長

稚内信用金庫(本店稚内市)が、本年10月15日に創立80周年を迎えた。同信金は戦後間もない1945年、地元商店街有志によって稚内信用組合として設立され、51年に信用金庫に改組。以後、今日まで宗谷管内の地域経済を支えてきた。その間、地域に激震をもたらした2百海里問題をはじめプラザ合意、バブル崩壊、そして近年のデフレ不況──。そんな時代の荒波を乗り越え、常に地元に寄り添ってきたのが稚内信金だ。創立80周年という大きな節目に当たり、増田雅俊理事長(71)にこれまでの歩みを振り返ってもらい、これからの「ポスト80年」に向けた、あるべき信金像を訊いた。

(9月19日取材、佐久間康介・工藤年泰)

バブル崩壊で株売却を即決


 ──戦後80年の今年、稚内信金も創立80周年を迎えました。
 増田
 先の大戦が終わった直後に初代理事長の高橋善之助さんをはじめ、地元商店街の6人で信用組合を設立したのが始まり。それが1945年10月15日だったので、その日が創立記念日になりました。51年に信用金庫法が施行されて信用金庫に衣替えしたという流れです。
 高橋善之助さんは初代と3代目の理事長に就き、4代目が井須孝誠さん、5代目が佐野日出勝さん。そして6代目の理事長が私になります。
 ──増田理事長が入庫されてから現在に至るまで、実にさまざまな出来事がありました。
 増田
 1978年に入庫して最初の大きなインパクトは、200海里排他的経済水域の施行でした。実は入庫してからわかったのですが、前年の77年にこの規制が施行されていたのです。まちの経済に大きな衝撃が走っていたのに、私は何も知らずに入庫してしまった(笑)。
 その後は1985年のプラザ合意ですね。マーケットの仕事を担当するようになって1年経たない頃にそれが起きました。続く87年のブラックマンデーの時は、まさにプレイヤーとしてど真ん中にいたので衝撃は大きかった。当時、金庫には株価ボードがありましたが、それが真っ赤になったのを覚えています。
 それからバブル経済。ようやく金融政策などがわかるようになってきた頃、90年の入り口で株価大暴落、いわゆるバブル崩壊です。89年の年末は、かなりの株など有価証券を保有していた頃で、年が明けて一挙に株価が下がりました。何もできず、じっとしていたのですが、幸いなことにその後リバウンドしたので、その年の4月、一気にほぼ全ての保有株式を処分しました。

(ますだ・まさとし)1953年11月宗谷郡猿払村生まれ。72年稚内高校卒、78年3月北海道大学法学部卒、同年4月稚内信金入庫。2001年常勤理事業務推進部長、04年6月常務理事総務部長、06年6月から現職。71歳

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