自分の原点である酪農業に再参入した渡辺氏(稚内市増幌の大型牛舎で)
Agri Report ──稚内グリーンファクトリーの挑戦
地域の未来を託された男──。小説のタイトルのような生き方をしてきた人物が稚内市大字宗谷村字増幌にいる。有限会社稚内グリーンファクトリーの渡辺義範代表取締役(65)、その人だ。酪農支援のコントラクター事業や風力発電事業、珪藻土事業のほか、酪農業の有限会社ビックグリーン増幌の代表取締役も務め、今やグループが宗谷地区で所有する土地は6千ヘクタールを超える。不動産事業では稚内市内に「ローソン」の店舗用地を提供、新たなコンビニ進出のお膳立てもした。渡辺氏が手掛ける数々の事業の原動力は、祖父が百十数年前に入植したこの地を疲弊させたくないという強い想いだ。限界集落という言葉に押し流されてしまう地域が多い中、渡辺氏は「最北端のまちから食糧とエネルギーを全国へ届ける」と揺るがぬ決意で生まれ故郷と向きあっている。
(9月19日取材 工藤年泰・佐久間康介)
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日に焼けた筋肉質の身体、短髪の顔に刻まれた太い皺。そんな風体に似つかわしくない柔和な眼差しが、こちらを見つめる。「私は、生まれてから一回も住所を変えていない。この地で生まれ、この地で過ごし、この地で事業をしてきた」。その語りからは地元の風土に誇りを持つ気概が伝わる。そんな渡辺氏が最初に案内してくれたのは、事業拠点の増幌地区に点在する石碑の数々だった。
会社のすぐ近くにある「宗谷酪農発祥之地」(1997年建立)から始まり、「稚内市立増幌小中学校跡地」(2013年建立)、「稚内市立上増幌小学校跡地」(同年建立)、そして渡辺氏の祖父である「渡辺忠作入植の地」(18年建立)。「宗谷酪農発祥之地」は協賛会の手によるものだが、後の3つは渡辺氏が私費を投じて建てた。
「増幌の地で親子三代生きてきて、私はここをベースに事業を広げてきた。生まれ育った土地を大切にして恩返しをしたい。そうでもしておかないと、あと10年、20年経ったら学校があったことなど、誰にもわからなくなってしまう」(渡辺氏・以下同)
これらの石碑は、地域の記憶を留める道標のようなものなのだろう。
渡辺氏は1958年7月、この地で生まれた。祖父の忠作氏は1918(大正7)年、渡辺氏が生まれた場所から東に数キロ離れた地に入植。実父は次男だったため恵北に近い場所に移り、馬の種付けを生業にしていた。当時、馬は貴重な存在だった。畑を耕し、魚を水揚げするなど農村でも漁村でも馬は労働力そのものだった。やがて、モータリゼーションの波がこの地にも押し寄せ、馬の役割は急速に萎んでいった。1970年頃、実父は馬の種付けから身を引き酪農に専念することになった。
小学校、中学校と進むにつれ渡辺氏は実家には欠かせない存在になっていった。農業高校は名寄にしかないため親元を離れられない同氏は稚内商工高校機械科を選んだ。
「入学試験に落ちたら家の手伝いに専念しようと思っていたが、合格できたので通うことにした。朝晩手伝ってから高校に通ったが、昼から早退して農作業を手伝うことも多かった。親から高校に『戻ってこい』と電話がかかってくるんだ。でも拒む気持ちはなかったね、そういうものだと思っていたから」
高校卒業後、渡辺氏は実家の酪農を背負うことになる。そんなある日、農協の職員が訪ねてきた。「本気でやる気があるなら融資をする」と、願ってもない話。渡辺氏の働きぶりを見てきたその職員は、「この男なら間違いなく成功する」と確信していた。普通では貸せないような額を渡辺氏に貸してくれたという。そんな24歳の時、20歳だった尋美さん(稚内グリーンファクトリー副社長)と結婚する。
「酪農で一番になりたくて働いたのではないよ。借金を返すため夫婦で懸命に働いた。完済しても働きに働いたから一番になった」