さっぽろ麻生乳腺甲状腺クリニックの亀田院長に「がんゲノム医療」を訊く
解明された遺伝子変異と乳がん発症の「因果関係」
最新の研究成果を治療に取り入れている亀田院長
(かめだ・ひろし)1980 年北海道大学医学部卒業。同大第一外科入局、小児外科・乳腺甲状腺外科の診療と研究に従事。2001年麻生乳腺甲状腺クリニック開院。17年6月に法人名・施設名を医療法人社団北つむぎ会 さっぽろ麻生乳腺甲状腺クリニックに改称。日本乳癌学会専門医、日本外科学会専門医、日本がん治療認定医療機関暫定教育医・認定医、アメリカ臨床腫瘍学会(ASCO)会員、医学博士
Medical Report
遺伝子を調べてがんを治療する「がんゲノム医療」が注目されている。ゲノムとは全遺伝情報を指し、乳がんの分野でもがんの原因となる遺伝子を一括して調べる「がん遺伝子パネル検査」や乳がんの再発リスクを数値化し抗がん剤の投与を判断する「オンコタイプDX乳がんスコアプログラム」が保険収載されている。昨年7月には京都大学の研究チームが、乳がんの芽となる遺伝子の変異から発症までのプロセスを最先端のゲノム解析で明らかにしたというニュースも飛び込んできた。医療法人北つむぎ会「さっぽろ麻生乳腺甲状腺クリニック」の亀田博理事長・院長を訪ね、京都大学のゲノム解析やゲノム医療の現状について訊いた。
(工藤年泰・武智敦子)
画期的な日本の研究成果
昨年の7月26日、イギリスの国際学術誌『Nature』(ネイチャー)に乳がん発生のメカニズムに関する研究論文がオンライン掲載された。京都大学乳腺外科学講座と腫瘍生物学講座による共同研究で、思春期前後に最初の遺伝子変異を獲得してから数十年後の発症に至るまでのプロセスを最先端のゲノム解析技術を用いて世界で初めて明らかにしたことで、注目を浴びている。
研究では、単一の乳腺細胞に変異が蓄積する過程を乳汁からオルガノイド(試験管の中で幹細胞から作るミニチュアの臓器)を樹立してゲノム解析し、全ての乳腺細胞は閉経までに毎年19・5個の変異があることを突き止めた。さらに閉経後には蓄積の速度が3分の1に低下し、1回の妊娠出産で約50個の変異が減少することも明らかにした。
研究チームはこれらの解析結果から乳腺細胞の変異には女性ホルモン(エストロゲン)が影響し、出産後には54・8個の変異が減少することが分かった。
同チームは、こうした変異の獲得プロセスに基づき最初の遺伝子変異の獲得から乳がんに至るまでの時間的経過を推定。その結果、①乳がん全体の20%を占めるder(1;16)転座陽性乳がんは、思春期前後にこの転座を獲得した単一の細胞に由来する ②同細胞は細胞分裂を繰り返し数十年後に乳がんを発症するまでに乳腺内の幅広い領域に拡大する③このような拡大のプロセスを通じて30歳前後までに乳がんを発症する複数の細胞が生まれ、こうした細胞から乳がんが生じる──と結論づけた。
亀田院長は、今回の研究を次のように高く評価する。
「疫学的には出産授乳をしていない女性に乳がんが多いことは分かっていましたが、その裏付けがなかった。この研究は乳がん全体の20%を占めるder(1;16)転座陽性乳がんをゲノム解析し、早期に変異した細胞から乳がん発症に至るまでのプロセスを明らかにし、それを証明した。今後の乳がんの発症予防や早期治療に貢献する重要な研究だと思います」
さらに、この研究の最大のポイントについて「乳がん全体の20%を占めるder(1;16)転座陽性がんの原因を突き止め、それをエストロゲンに由来するとした点」だと話す。
研究では、思春期の前後からエストロゲンは急に増え閉経までに毎年19・5個の割合で乳腺細胞に変異があるが、閉経後はエストロゲンが減るため、それが半分以下になるとしている。
亀田院長によると、多く子どもを生んだ女性には乳がんが少ないと言われ、イギリスの研究では赤ちゃんをひとり生むと乳がんになる確率が5%減るというデータもあるという。
京大の研究チームは授乳中の女性の乳汁やさまざまな年齢の乳がん患者の細胞を培養してゲノム解析を行ない、エストロゲンの低下する閉経期になると乳腺における遺伝子変異の蓄積速度が著しく減少するという研究結果を導き出した。
「今回の研究により、エストロゲンが関係した発がんメカニズムの解明にも期待が高まります。今後は残り80%の乳がん発症プロセスについても解明が進むことを願っています」
(亀田院長、以下同)
マンモグラフィーの診断画像
(右側の丸く白い部分が乳がん組織)
エコー検査で確認された乳がん(上部中央)
マンモグラフィーの診断画像
(右側の丸く白い部分が乳がん組織)
エコー検査で確認された乳がん(上部中央)
自分のがんと遺伝子の関係
これまで、がんの遺伝子検査は狙いを定めた遺伝子を一つひとつ調べるしかなかったが、多くの遺伝子を調べて治療につなげる「がんゲノム医療」の研究が進み、がんの発生に関わる複数の遺伝子を一括して調べる「がん遺伝子パネル検査」が注目されている。
遺伝子をひとつずつ調べる従来の検査方法では、時間がかかり検査できる遺伝子の数も限定的だった。しかし「がん遺伝子パネル検査」では、「次世代シーケンサー」という塩基配列を高速で読み解く高性能な装置の開発により、遺伝子の情報を大量に速く、かつ低コストで解析できるようになった。
検査は患部組織や血液からDNAなどを取り出し、がんがどのような遺伝子異常から起こっているかを突き止め、それに応じた治療薬を探す。検査の対象となるのは、標準的治療が終了し、他の治療法を検討している場合。あるいは標準治療の選択肢がない原発不明がん、希少がん、小児がんなどだ。乳がんで有効な治療法がない場合も同検査の対象となり、同クリニックでは保険収載される前に、患者からの希望で2人を北大のがん遺伝子診療部に紹介している。
ただ検査で遺伝子異常が発見されても、自分のがん治療に合致する薬で治療できるのは全体の10%程度とされ、検査を受けても全ての患者に最適な治療が見つかるわけではない。
「確かにがん遺伝子パネル検査は優れた検査法ですが、せめて検査を受けた5割の患者に合った治療が結び付くといいのですが」
このような、がんゲノム医療で欠かせないのが分子標的薬などの薬剤だ。それまでの抗がん剤治療は、がん細胞だけでなく正常細胞も攻撃するため、吐き気や抜け毛、全身倦怠感などの強い副作用が出ていた。これに対して分子標的薬はがん細胞に出現するたんぱく質などを標的にし、がんの増殖を抑えることができる。正常細胞を攻撃せず、がんに関わるたんぱく質にのみ働きかけるので、副作用が少ないのが特徴とされる。
その分子標的薬と抗がん剤を組み合わせた新しい薬が、2020年に日本で開発された抗HER2薬「エンハーツ」だ。
以前はHER2陽性乳がんは予後不良とされていたが、1990年代に最初の分子標的薬「ハーセプチン」が開発されてから、しだいに予後が良好ながんと考えられるようになった。
「HER2陽性乳がんの治療には、ハーセプチンと抗がん剤の併用が進行・再発乳がんに対して治療効果がありました。臨床的に腫瘍が小さく飛び火していない乳がんであればハーセプチンだけ。もう少し進行したがんや再発したものについてはハーセプチンにパージェタというハーセプチンの効果を強める加えます。また、カドサイラ(ハーセプチン+ エムタンシン=抗がん剤)もよく使われています。新しい抗HER2薬、“エンハーツ”(ハーセプチン+デルクステカン=抗がん剤)は再発乳がんでHER2陽性だけでなくHER2の発現が少ないHER2(1+)、HER2(2+)でも使えるようになり、非常に期待されています」
(亀田院長)
副作用については、どうなのか。
「分子標的薬をめぐってはハーセプチンが登場してから乳がんの治療法が大きく変わったと言われましたが、長期間使用するとまれに手の痺れや脱毛の副作用が出ることもあります。抗がん剤と結合したエンハーツについては重症の間質性肺炎もみられることがあります」
何より大事な早期発見
乳がんの再発リスクを数値化する新しい遺伝子検査「オンコタイプDX乳がん再発スコアプログラム」についても触れておこう。この遺伝子検査は今年9月に保険適用されたばかりで、手術後の乳がんの再発リスクを調べることで抗がん剤治療を受けるかどうかの選択肢となる。
同プログラムはアメリカのエグザクトサイエンス社が発売する遺伝子検査で再発リスクは0~100の再発スコアで数値化されている。再発スコア25以下を「低リスク」、26以上を「中間リスク」もしくは「高リスク」に分類している。再発のリスクが高ければ、抗がん剤の投与が推奨される。再発スコアが低もしくは中リスクであれば原則として抗がん剤を投与する必要性はない。
亀田院長によると、乳がんの中でもこの検査が適用されるのは乳がん患者の約7割を占める「ホルモン受容体陽性HER2陰性 」の患者になる。つまり、がん細胞の増殖に関与するたんぱく質の女性ホルモンを取り込む「ホルモン受容体」が陽性で「HER2」陰性の場合で、なおかつ脇の下のリンパ節転移が0~3個の患者が対象となる。
このタイプの患者は手術後に再発を防ぐためのホルモン療法を行ない、場合によっては抗がん剤を投与する。先述の通り抗がん剤は副作用を伴うため、どうしても必要な時以外は使用を避けたい。
「オンコタイプDX乳がん再発スコアプログラムは19年前にアメリカで開発された遺伝子検査で、再発スコアから今後の治療方針の目安を立てることができるというメリットがあった。日本では16年ほど前から自費診療で行なわれてきました。この度の保険収載は患者にとって朗報で、これまで自費診療で45万円かかっていた費用が3割負担の13万円程度で済むようになりました」
乳がんは日本女性の9人にひとりが発症するとされ、女性がかかるがんの中でもトップの罹患率を占める。そういう意味からも、同プログラムの保険適用で乳がんの手術後に最適な治療法を受ける選択肢が広がったのは大きなトピックスと言える。
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